島田洋七の佐賀の自宅や現在の年収はいくら?嫁と子供は?洋八とは兄弟?
佐賀のがばいばあちゃんでおなじみ島田洋七さん。
・佐賀の自宅はどこ?
・現在の年収は?
・嫁と子供は?
・島田洋八とは兄弟?
ということについてをまとめてみました。
プロフィール
名前:島田 洋七(しまだ ようしち)
本名:徳永 昭広(とくなが あきひろ)
生年月日:1950年2月10日
年齢:66歳
漫才コンビB&Bのひとり。
実家:広島県広島市白島九軒町(基町生まれ)
所属事務所:島田オフィス、オスカープロモーション
佐賀県生まれというイメージが強いですが、出身は広島なんだそうです。
学歴
広島市立幟町小学校1年のときに佐賀に引っ越し。
佐賀市立赤松小学校→佐賀市立城南中学校を卒業。
高校は野球の名門である広島の広陵高校を卒業している。
高校は野球推薦で入学しているが、野球部自体は1年生の夏でけがのため、退部しているとのこと。
大学は広島工業大学土木工学科に入学したが、中退。
家族構成
実家の父親は広島で被爆し、島田さんが2歳の頃に原爆症で亡くなっています。
母親と兄もいるとのことですが、
島田洋八さんは兄弟ではないそうです。
経歴
大学中退後に八百屋に1年半住み込みで働くなどしたのち、
1970年、なんば花月で笑福亭仁鶴の落語や、中田カウス・ボタンの漫才を観て、中田カウスが愛車ポルシェ(仁鶴がベンツ)で帰るのを見て
「15分笑わせるだけでお金が稼げるなんて、こんないい商売があるのか」と、とても簡単そうに見えたのが決意した。うめだ花月の進行係として採用され、美人の今喜多代、優しそうな島田洋之介に惚れ弟子入り。
兄弟子の島田一の介とコンビを組んだ事もあったが、互いに訛りが強く程なく解散したという。
東京の漫才協団に加入し、戸崎事務所に移籍。
1980年1月、澤田隆治プロデュースによる「花王名人劇場」(関西テレビ)「激突!漫才新幹線」に大抜擢され出演。
漫才を変えたといわれる、スピードとスタイルで、大きな反響を巻き起こす。
当時の月収は1億円はあったとのことで、
貯金は8億円はあったそうです。
1981年5月から始まった『オレたちひょうきん族』では、B&Bは裏の日本テレビ『爆笑ヒット大進撃!!』で、レギュラーを持っており、
ひょうきん族への参加は半年遅れで、完全に脇に回る。また、1982年の「笑ってる場合ですよ!」終了と同時に人気が急降下、1983年秋にB&Bを解散。精神的な理由で6年間の休養生活に入り、表舞台から姿を消す。
最盛期には当時都内の一等地に下北沢など数軒しかなかった広島風お好み焼き店“モミジハウス”を
新宿・渋谷・原宿パレフランスビル地下1F(1F・オーバカナル(AUX BACCHANALE))などの一等地に6店舗展開などの一等地に6店舗展開したが、
母親の要求に応じて全て閉店。
たけしと親友になったのは1986年、たけしがフライデー事件を起こした時である。
当時謹慎中で誰も面会に来なかった中、唯一洋七だけが会いに来たため、たけしは感謝で一日中泣いたそう。
沖縄・石垣島で謹慎中のたけしの所に、当時ヒマだった洋七は週に3日くらい来て飲み
人気が急降下し、仕事が全くなくなった時期に睡眠薬自殺を図ったことがある。
しかし薬を飲もうとしたそのとき、たけしから電話があり「一緒に飲もう」と誘われ、一晩中飲み明かしているうちに自殺のことなど忘れてしまった。この頃たけしの仕事場に付いて回る。たけし軍団のコック長みたいなことを7年間くらい続け、
竜雷太と土地がらみの問題で裁判になり、勝訴するも結局借金しか残らなかった。スポンサードリンク
1995年第17回参議院議員通常選挙に当時居を置いた埼玉県選挙区から出馬したがで落選。
この頃。芸人引退を決意し、たけしに相談するが、「芸人をやめるなら友達づきあいをやめるぞ!」と一喝され、引退を思いとどまる。
1996年、一度は契約を解除された吉本に頭を下げて復帰を許され、生涯一漫才師を誓い、洋八と再びB&Bを復活させる。
祖母との思い出は恥ずかしい過去でもあり、あまり他人に話してなかった。しかし講演で祖母の話をすると非常に受け
徳間書店から出版させて欲しいと連絡があり三度目の出版で文庫化されると口コミで評判が広がる。
その後、増刷を重ね“がばいばあちゃん”シリーズ三部作はベストセラーとなり映画化・ドラマ化もされ、再び注目された。
2007年の時点で総売り上げは20億円超、徳間書店の社員全員に”がばいボーナス”が出る。
“がばいばあちゃん”シリーズ総計では2008年7月、670万部を越え韓国、台湾、マレーシアなどでも出版された。吉本在籍時は多数のテレビ出演ほか、「佐賀のがばいばあちゃん」を演目とした講演依頼が殺到、その回数は2012年3月4000回を越えた。
2007年8月末、「がばい」関連の収益について吉本側との考えの相違で、吉本は他のタレントの手前もあるから、印税の一部を吉本に入れてくれないかと洋七に頼んだが、
洋七はこれを拒否し、12月9日に契約関係が終了。
『佐賀のがばいばあちゃん#映画』は、2006年に倉内均監督で映画化され、2009年に洋七自身が監督を務め再映画化。
この際、追放同然で吉本を退社した洋七の映画に島田紳助が友情出演したことで紳助と吉本の関係も悪化したと言われている。
また、紳助さんやたけしさん、さんまさんは島田さんの話は「9割以上が嘘である」と述べている。
自宅は?
1999年から奥さんの母親が倒れたことがきっかけで、その介護のために佐賀県に移住している島田さん。
具体的な住所は、佐賀県佐賀市東与賀町だそうで、
場所的には、国道444号線沿いだという。
嫁は?
20歳で現在の奥さんと駆け落ちをしたという島田さん。
奥さんとは、19歳の頃に知り合ったのが馴れ初めらしいが、
当時、デパートで仕事をしていた奥さんと駆け落ちをするには相当な覚悟があったでしょうね。
駆け落ちから約8年間は、パンの耳をかじるなど、極貧生活を送っていたとのこと。
なお、奥さんの具体的な名前や画像などは明らかになっていません。
子供は?
子供についての情報はまったくと言っていいほどありませんでした。
子供がいないなんてことはないと思いますが、情報は非公開とのことです。
現在と年収は?
現在は自宅で家庭菜園を楽しむ傍ら、「がばいばあちゃん」関連の講演や少しばかりのタレント活動で収入を得ている島田さん。
ピーク時の月収は1億円を越えていましたが、
現在の年収は「がばいばあちゃん」の印税と講演料などを合わせて1億円はあるとのことです。
やはり、すごいなw
まとめ
いかがでしたか?
今回は、島田洋七さんの自宅は佐賀県佐賀市東与賀町。
年収は1億円あたり。
ということなどをお送りしました。
一時は芸能界引退も考えるほど干された状態だった島田さんでしたが、たけしさんが手助けをしてくれていたのですね。
仲間に恵まれたのも島田さんの人柄があってこそなのではないでしょうか。